大人が忘れた「渡った後の会釈」効率と引き換えに捨ててしまった大切なコト

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こんにちは、きょーちゃんです。

「大人になればなるほど、できることは増えていく」

普通はそう思いますよね。知識が増え、経験を重ね、お金を稼いで欲しいものを買い、車を運転できるようになる。子どもの頃にはできなかったことが、当たり前のようにできるようになるのが「成長」というものです。

けれど最近、車を運転していて、ハッとさせられる出来事がありました。 むしろ大人になるにつれて、私たちが「できなくなってしまっている大切なこと」があるのではないか、と。

横断歩道で思わず声を上げてしまった理由

その日は車を運転中、横断歩道を渡ろうとしている小学生を見かけてブレーキを踏み、道を譲りました。

歩行者優先ですから、譲ること自体は特別なことではありません。子どもたちもペコリと頭を下げて渡り始めます。ここまではよくある日常の光景です。

しかし、私が思わず「えっ!?」と声を上げてしまったのは、その直後でした。

渡し船のように横断歩道を渡り切ったその子たちが、くるりと振り返り、車に向かって再び深々と会釈をしたのです。しかも、一緒に行列を作っていた友達もみんな同じように。

後続車もいなかったので、あまりの微笑ましさと衝撃に、つい観察してしまいました。すると、面白い傾向が見えてきたのです。

  • 小学1〜3年生くらい:渡る前だけでなく、渡り切った後も振り返って一礼する。
  • 中学生くらい:渡る前の会釈はするが、渡った後は振り返らずそのまま歩き去る。
  • 大人:渡る前に軽く手を挙げたり会釈をしたり(あるいは無言で)渡り、そのまま目的地へ向かう。

もちろんすべての人に当てはまるわけではありませんが、成長するにつれて「渡った後の会釈」はきれいに消えていくようでした。

「渡る前」と「渡った後」の決定的な違い

なぜ、大人になると「渡った後の会釈」をしなくなるのでしょうか。

それは、同じ「頭を下げる」という行為であっても、渡る前と渡った後では決定的な意味の違いがあるからだと気づきました。

  • 渡る前の会釈 =「渡らせてください(お願い・事前交渉)」
  • 渡った後の会釈 =「待ってくれてありがとう(純粋な感謝)」

渡る前の挨拶は、どこか「自分を通してもらうため」という目的が混ざりやすいものです。しかし、渡り切った後の会釈には、自分にとっての利害や目的はすでに残っていません。「用が済んだ後」なのです。

自分にとっての目的が達成された「その後」に、自分のために時間を使い、ブレーキを踏んで待ってくれたドライバーに対して敬意を払う。

利害関係が消えた「後」の立ち振る舞いにこそ、その人の本質や、相手に対する本当の思いやりが現れるのではないかと深く感じ入りました。

私たちは何を理由に「省エネ」になったのか

子どもたちが素直にできていることが、なぜ大人になるとできなくなるのか。

そこにはきっと、「照れくささ」や「周りの目」もあるでしょう。しかし一番の理由は、私たちが無意識に「効率優先」の生き方に慣れてしまっているからではないでしょうか。

目的地へ1秒でも早く着くこと。無駄な動作を減らすこと。 そうやって日常の行動を「省エネ化」していくプロセスの中で、私たちは「振り返って一礼する」というほんの1秒の余白を削ぎ落としてきたのかもしれません。

ですが、運転をしていると分かりますが、道路の上はストレスや苛立ちが溜まりやすい場所です。強引な割り込みや暴走にヒヤリとし、ピリピリとした空気に包まれることも少なくありません。

そんな中届いた、小学生たちの「1秒の振り返り」は、イラ立ちや疲れを一瞬でリセットし、こちらの心を驚くほど穏やかにしてくれました。「安全に運転しよう」という優しい気持ちにさせてくれたのです。

たった1秒の「相手を想う行動」は、巡り巡ってその場の空気全体を優しく変える力を持っています。

今日から「一歩去った後」の感謝を

年齢を重ねるということは、賢くなり、要領が良くなることだけではないはずです。効率や照れくささと引き換えに置いてきてしまった純粋な気持ちを、時には思い出してみる。

「用が済んだから終わり」ではなく、配慮してくれた誰かに対して、去り際にひと呼吸置いて感謝を伝える。

小学生たちの後ろ姿から学んだその「心のゆとり」を、これからは自分自身が恥ずかしがらずに体現できる大人でありたい。そう強く思った一日でした。

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